研究の背景

異分野舞台としての定量的生命科学

これまでミクロな生命現象を扱う生命科学は、現象の構成要素である遺伝子・タンパク質などに注目し、それらを同定する定性的な方法論を発展させてきました。この方法論、つまり分子生物学的な方法論は、生命科学における専門性・集約性・生産性を飛躍的に高め、前世紀後半から非常に大きな成功をおさめています。しかしこの分子生物学の強力さとその成功のために、細胞や発生などの研究に分子生物学プロパーでない例えば数理系の研究者が入る余地はほとんどありませんでした。

しかし最近、現象の定性的な情報や現象の構成要素(遺伝子・タンパク質・相互作用など)に関する情報が充実してきたことを受け、定性的な側面だけでなく定量的な側面を理解することの重要性がクローズアップされてきています。特に、2008年のノーベル化学賞受賞を受賞した蛍光タンパク質などのバイオイメージング技術がこの10年で急速に発展したため、技術的にもミクロな生命現象の定量的な挙動を測定可能になっています。

生命現象の定量的な側面に注目すれば必然的に、定量的な測定・解析・理解を可能とする方法論が必要になります。残念ながら分子生物学における専門化・集約化の結果、分子生物学の黎明期には定性的な解析と等しく行われていたこのような定量的解析のための技術・知見の多くは、現代の分子生物学において失われてしまっています。したがって、分子生物学の築いた最新の生命科学に新たに定量的な理解を加えるためには、定量的な測定・解析・理解に関する方法論・知見を有する工学・物理・数学などの異分野との連携・融合が不可欠になってきています(参考:30年後の発生生物学)。

実際、ここ数年で「生命現象の定量的な理解」という共通の目標に対して、分子生物学・生物物理・工学そして情報・理論など様々な技術を持つ研究者が集結し、技術・知見を出し合って研究をする、という舞台が整いつつあります


定量的生命科学を情報・理論の立場から実践する

このような定量的生命科学を実現するためには様々な情報工学的技術が必要になります。
複雑な細胞・発生現象から定量的な特徴を抽出するデータ解析・画像解析は、それ無しでは見落とされていた微妙だが決定的な細胞のふるまいや、一見法則なくふるまうばらつきの大きい細胞現象が持つ統計的な性質を明らかにしてくれます。そして、定量データに数理理論を組み合わせれば、現象の背後に潜む生命の原理を解明することも可能になります。

様々な情報工学的・数理工学的な技術を使いこなして実験系研究者と共働することにより、「細胞にとっての時間とは何なのか?」「多細胞生物はいかにしてその複雑な構造を作りあげるのか?」「生命は、自身の構成要素が内在するばらつきや外環境のもつ不確定性をどのように手なずけているのか?」といった問題が明らかになるでしょう。

生命現象から学ぶ新規理論の探究

生命科学における定性的な方向性から定量的な方向性への転換は、逆に理論・情報系にとっても新しい研究を立ち上げる可能性を秘めています。

歴史的に生命現象とは物理現象と並んで、科学・工学の歴史の中で人間の創造性に大きな影響を与えてきたものの1つです。例えば飛行機は「人間が鳥のように空を飛びたい」という欲求の中から生まれましたが、その動機を与えたのは生命でした。これだけでなく近年においては「同期現象」、「自己組織化」、「非平衡」、「ニューラルネット」、「遺伝的アルゴリズム」、「自律分散」など様々な理論的な概念が生命現象を発端の1つとして発展してきています。

特に細胞・発生現象はこれまで情報・理論の知見がほとんど取り入れられていなかった分野ですので、こういった新しい理論の源泉が眠っていると期待されます。分野融合型の定量的生命研究を実践して生命の新たな側面を発掘することにより、生命現象に学ぶ新規理論の探究が可能になるのでしょう。

生命現象理解のための理論研究と、新規理論のための生命研究のバランスを取る

定量的な生物科学の実現や、そこから新しい理論の萌芽を模索するためには、異分野の研究者が実質的に連携することが不可欠です。

しかし、実験と理論の異分野融合には、実験的(生物学的)新規性を重視するのか、理論的新規性を重視するのか?という問題が存在します。 実験の生データに基づき、実験系とモデルを実験研究者と1から二人三脚で構築する場合、必ずしもそこから出てくる理論は理論的に新しいものではない可能性を秘めます。 また逆に、表面的な知識から初めて、理論的に面白いモデルを立てても、それが実際の生命現象で成り立っているかどうかはわかりません。

理論研究者としてこのような「生物学的なリアリティ」と「理論的な新規性」とを両立するためには、 「既存のデータと現時点で得ることができるデータから始めるボトムアップな研究」と「限定された不十分なデータにあえてとらわれないトップダウンの研究」を2足の草鞋で進めることが、長期的には1つの健全な解答であると考えています。

短期的なコストではなく長期的に意味のある研究に焦点を当て、新しい生命科学研究を推めることが今後の定量的な生命科学研究や理論生物学研究には不可欠である、と考えられます。


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