研究テーマ3:生命現象の新規理論・生命に学ぶ新しい数理理論

生命現象とは物理現象と並んで、科学・工学の歴史の中で人間の創造性に大きな影響を与えてきたものの1つです。

例えば飛行機は「人間が鳥のように空を飛びたい」という欲求の中から生まれましたが、その動機を与えたのは生命でした。これだけでなくより近年においては「同期現象」(ホタルの同期)や「自己組織化」(カントの考察に遡る)、「非平衡系」(生命の統計力学への探究)、「ニューラルネット」、「遺伝的アルゴリズム」など様々な理論的な概念が生命現象を動機として発展してきています。

しかしこれらの知見はほぼすべて、生物の個体を対象にしたものです(ニューラルネットは例外ですが)。逆にいえば、まだ手が付けられていないミクロなせいm正現象の中には、未だ新しい理論の源泉が眠っているともいえるでしょう。

小林研究室では、「融合による定量的な生命科学研究の実現」と同時に、理論研究者として、ミクロな生命現象から学ぶ新しい理論の探究を行っています。

理論だけに集中しないことは非効率なように思えますが、すでに生命科学と理論研究の関わりの長い歴史の中で、表面的な生命科学の知識に基づく理論というものは出尽くしている、という現状もあります。より生命現象の深い所にかかわり、謙虚に生物に学ぶことがこの状況を打開できる道である、というのが考えです。

ゆらぐ素子から構成される生命システムの数理

具体的には、生物の構成要素である細胞がかなり曖昧そうな振る舞いをしているのに、全体として非常に効率的、そしてしばしばある意味ではロボットやコンピューターよりも巧みな振る舞いを示すように見られる、という点は理論的に生命現象から学び取れるテーマです。

この問題を解くためには2つのアプローチが大事であると考えています。一つは実際に細胞がどうやって曖昧な素子(細胞・細胞内反応)の組み合わせで巧みな振る舞いを作り出しているか?を理論的に明らかにすること、そしてあまり注目されませんが、もう一つのアプローチは生物がやっていることは、既存の工学・物理・数学の理論と照らし合わせることによって、本質的な新規性を解明することです。

現在は大まかな方向性として、細胞レベルでの「情報処理」という側面に数理的に切り込んでゆくことを行っています。一見、細胞の情報処理という言葉だけは色々なところに使われていていますし、また理論神経科学の分野で神経細胞に対しては長い蓄積があり、それらの意味で新規性に乏しいように思われます。

しかし細胞の情報処理という点で言うと、これを適切に扱う理論的枠組みは存在しておらず、逆に言葉だけがいいように利用され一人歩きして色々なところで使われていると思っています。これは理論家がしっかりとした理論を作って来れていないことに問題があるというのが個人的な認識です。

また理論神経科学との関係に言及すると、理論的に細胞レベルでの情報処理が遅れていることは確かです。しかし細胞が化学反応レベルで行っている様々な情報処理は、近年の分子生物学的な知見の蓄積もあり、ネットワークレベルや生化学レベルでどんな反応が情報処理を担っているのか?という点について、非常にしっかりとした情報が得られるようになっています。他方で神経科学はどうしても脳の柔軟性に起因した個別性の問題がつきまとい、実際にある情報処理をどんなシステムが実現しているのか?という実験側からのフィードバック(もとい理論への拘束条件)が相対的に得られにくいと思っています。その意味で細胞レベルでの情報処理はこれから実験的知見と相補的に加速的に発展してゆく可能性があると思っています。

統計学・情報理論と力学系理論の融合によるゆらぐ生命システムの解明

このような問題に理論として切り込んでゆく際に、現在目指していることが統計学・情報理論などの枠組みと力学系的な枠組みとの融合です。前者はゆらぎからの情報抽出や情報処理を数理的に扱う為に発展した非常に強力な枠組みであり、細胞レベルでの情報処理の理解に大きな役割を担うと考えています。しかし問題は、その理論が主に時間構造を含まない静的な状況において発展してきた、ということです。すべての生命現象は動的であり、細胞内でおこる様々な動的な化学反応は力学系の枠組みで表されます。従って細胞が行っている情報処理というものを数理的に厳密にとらえつつ、かつそれを分子的な知見と融合させるためには、情報理論・統計学と力学系との融合が不可欠になるわけです。例えば分岐や相転移などの力学系の理解から自然と出てくる概念は情報理論や統計学にはほとんど現れません。しかし生命現象においては、ある種のヒステリシスや振動など分岐現象を介して現れた動的構造は多数見られます。このような現象がいかに情報処理と関わっているか?は(厳密な数理として)ほとんど手が付けられていない問題だと思っています。

情報論的最適性から捉える分子・細胞・発生現象

JSTさきがけで現在進めている「情報処理の最適性からとらえる分子・細胞・発生現象」ではこのような研究を精力的に進めています。この研究はなかなか面白く、様々な理論を組み合わせた総力戦的な様相を呈してきています。例えばキーワードで言うと、マスター方程式・確率微分方程式・フォッカープランク方程式・ベイズ統計・情報幾何・システム同定・最適制御・確率制御・ カルマンフィルター・逐次推定・情報理論・統計物理・ランダム力学系・待ち行列・第二量子化 などが数理的手法として関係してきます。このような既存の数理的手法が生物学的なモチベーションおよび実際の知見からのフィードバック(実際には既存の知見を取り入れたシミュレーションなど)を介して自発的かつ有機的につながってくるのが非常に楽しいです。

さらに定量的な生命研究との関連で言うと、現在定量的な生命科学研究が直面している課題の一つが「定量的な解析で初めてわかる問題は何か?」ということを明らかにし、分野の存在意義を確立してゆくことです。では定量的な解析でわかることとは何でしょうか?、その1つは発生現象や細胞運動の過程に働く「力」の問題です。力は分子や遺伝子、タンパク質のように実在ではありません。逆にこれら実在のあいだの定量的かつ動的な関係性を計測し、かつ計算することによって明らかになるものです。その意味で定量的な解析で初めてわかる現象の1つだと確信していますし、実際盛んに研究が行われています。

他方で、個人的に「力」と同様に定量化を介して初めてわかるものが「情報」だと思っています。物理的な現象と異なり生物がほかの生物との競争に打ち勝ってゆくためには自身が得られる情報を最大限利用することは不可欠です。この情報というものは非常に曖昧で、ある種の定量化と数理的な解析を介してのみその意味が明らかになります。しかしそれをうまく処理するための数理的枠組みが構築されていないため実験的に適切に扱われはいません。細胞にとっての「情報とはなにか?」、「それをいかに定性的にとらえるか?」、さらには「それをいかにして定量的に評価するか?」を扱うための数理的方法論の確立が大事だと思っています。

はじめは既存の数理理論を借用して応用する部分が大きいでしょうが、このような理論的基礎と実験からのフィードバックを積み重ねて理論を深化させてゆくことにより、他の理論分野から見ても新規性の高い理論が構築できるのでないかと思っています。

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